誕生日を迎えた母に電話する。
同居する末妹が「耳が遠いで大きな声で話してあげてね」と言って替わる。
91歳になるが、今までと変わらず、普通に話しが出来る。
聞き直すこともなく、声もしっかりして、とてもそんな高齢には思えない。
「頭はまだええけど、体はちゃんと動かんじゃん」
涼しくなったらまた行くわ、と妹に戻す。
「しっかりしとるじゃん」
「いや、お兄ちゃんやお姉ちゃんと話すときは元気になるけど、普段はずっとボーっとしとるよ」
台所仕事は出来なくなったが、トイレや着替えなど自分のことは自分で出来る。
要介護ではなく、支援くらいだろうか。
末の妹は19歳で自分が結婚するときから、いっしょに家を借りて同居を始めた。
僕はまだ大学生だった。
以来、ずっといっしょに暮らしてくれた。
文句ひとつ言わず、穏やかに過ごしてくれているのは有り難い。
今日は朝から会議、月末に予定されている箱根駅伝の座談会の打合せ。
その後も阪神優勝特番やら、自分が担当するミニ番組やらの雑事に追われる。
追われることに慣れてないからね。
早めに動くと午後遅くにはバッテリー切れになる。
横になって休みたい。
5時過ぎに帰宅する。
Netflixで途中まで観たキム・テリ(「お嬢さん」「悪鬼」出演)の宇宙SF映画「スペース・スウィーパーズ」を見終える。
ストーリーはともかく映像はなかなかのレベルだった(と思う)。
阪神はマジック3となり。
最短であさって14日にリーグ優勝が決まる。
この老体も優勝特番のスタッフに入れられている。
王手がかかったら足踏みせずとっとと決めて欲しい。
初秋、毎日5編くらい慈しむように読んでいる南木佳士のエッセイ集。
多くの山を歩かせてもらった革製の登山靴だが、さすがに重く感じられる歳になってきたゆえ、新製品に買い換えた。
平地で履きならしてみるとその軽さに感動したのだが、先日、初夏の蓼科山に登ってみたら、足首の固定がゆるく、石がごろごろしている登山道の途中で二度も靴ひもを締め直さねばならなかった。軽さを得て、安定を失う。得たものと失ったものの実感は、やはり本物の山に入ってみなければわからなかったのだ。
それにしても、将軍平までの道のりはこんなに長かったっけな。
ルートを変えるつつ二十回くらい蓼科山に来ている同行の妻も同じ感想であった。
これは要するに「落ちた葉は根に帰る」現象で、われわれが老いて幼少期に帰ってきており、あのころ、日常から離れて歩く道はいつも長く感じられたのと同様のことなのだろう、と強引に結論づけた。
7月に白山の砂防新道を歩いたのは実に10年ぶりで、その間に僕は56歳から66歳になった。
その道のりが暑さもあって堪えたのは「落ちた葉は根に帰る」現象だったと言える。
そのときは単に呆れるほど体力が落ちてしまったと嘆いただけだったが、作家の手になるとこう描かれるのか、と感心した。
その7月、下山路で軽い足どりで颯爽と僕らを追い抜いた登山者がいた。
二人連れの女性で、一人はかなりの高齢、七十代後半くらいに思えた。
あっという間に遠ざかるその人の後ろ姿、思わずヒロと顔を見合わせた。
すごいね、と。
根に帰るどころか、軽やかに風に舞うような人もいるのだ。