朝、自炊系のサイトでチキンライスのブログ記事を読んだ。
東京のある店ではチキンライスなのに豚肉を使って出しているという記事だった。
なぜ「町中華のチキンライス」は鶏肉ではなく豚肉を使うのか?- メシ通 | ホットペッパーグルメ
豚肉じゃなくてもいいからチキンライスが無性に食べたくなった。
大阪へ出たついでに東天満の光中央軒へ行った。
瓶ビールと餃子、そしてチキンライス、ライス少なめで注文する。
ここのチキンライスは炒飯のように卵が入っていた。
町中華は店それぞれなのが面白い。
チキンライス欲はほどよく満たされた。
光中央軒に来て皿うどんを食べない手はない、というのはわかっているのだが、前回もオムライスだった。
次は皿うどんとビールにしよう。
朝、眼科へ行く。
先月末から、脳神経外科、歯科、内科と通院が続く。
でも歯と目は自転車の整備点検と同じ感覚でいる。
クオリティ・オブ・ライフの大切な道具だと思って点検は怠らない。
視力検査、眼圧検査、視野検査などなどで小一時間で済む。
今回は網膜や眼底出血の有無を調べる瞳孔を開けての検査はなかった。
じわじわと白内障は進んでいる。
女性のF 医師が「まあ、白髪みたいなものですから」と言う。
一回、4600円、年に2回で9200円か。
次は来年1月です。
今日中にどうしても済ませておかねばない台本案があるが、なかなか手をつける気にならない。
そういうときは場所を変える。
ボールペンの替え芯や珈琲豆などの買いものに大阪へ出る。(定期券あり)
南木佳士の最新エッセイ集「根に帰る落ち葉は」を読んでいる。
珍しく文庫サイズのハードカバー(厚紙)。
七十二歳、少しだけ上の世代の南木氏の文章表現には毎度毎度、溜飲を下げること多し。
「そうそう、そうなんですよ、それが言いたかったんです」と僕が書きたかったことを上質な文章表現で見せてくれる。
たとえば「誕生日」と題された一編。
…そんなある日、家の帰りつくと妻がいつものとおり夕食の用意をしてくれていた。
内容は朝出がけに頼んでおいた六十五歳の誕生日のメニューで、うどん、じゃがいもの天ぷら、きんぴらごぼう、のみ。
還暦を迎えたときにはまだ実感が湧かなかったのだが、さすがに六十五歳になってみると、この年齢から前期高齢者と区分される意味がよくわかる。
まだ体力気力にそこそこの自信はあるが、もう一本がんばりがきかない、というか、ここで力み過ぎてしまえばあとで祟りがある、とからだが勝手に自制してしまう。
加えて、石橋を叩くがごとく用心深く、文章の推敲もくどくなる、とある。
年齢は衰えだけではない。
経験による視野の広さ(好奇心)がある。
若い頃には見えてなかったものが、今なら見える。
人生の得失は常に等価なのだろうが、高齢化とともに、諦念と引き換えに得たものの有り難さが身にしみる。
先週、青春18きっぷ旅をして思った。
ホテルにたどりついた時点で疲れは果てていた。
そのときに痛感した。
地方で居酒屋巡りをするときはそれをメインイベントにしないといけない。
昼間に無駄に動き回らず体力温存、コンディションを整えておく。
乏しくなった資源。
パワーも、燃費も、燃料タンクの容量も少ない。
24時間でちゃんと活動できるのは6時間くらいではないか。
僕より高齢の太田和彦さんも77歳、吉田類さんも74歳、そもそも健啖家だが、ちゃんとペース配分はしてるのだろう。
そう思いたい。(笑)