他人の来し方、それも年配の人(老人)の人生に考えが及ぶのは、五十半ばになってからだったような気がする。
今でもときどき思い出す老人がいる。
大学時代、疎水のほとりにあるアパートに住んでいた。
そのアパートは木造の二階建て洋館で、かつては入院もできる病院だった.
まだ宮村医院と記されている住宅地図もあった。
一階が診察室、二階が病室だったのだろう。
家賃は2万以下で、ほとんどが金沢大学の学生だった。
一階の奥にちょっと広めの洋室があった。
いま思えば院長室だったのではと思う。
そこに住んでいたのは背の高い痩身の老人だった。
イメージは俳優のロイ・ナイ、あるいは笠智衆。
時々、共同の流し場で会って挨拶する程度のつき合いだった。
誰かの部屋で酒盛りをした翌日に「うるさくてすいません」と言うと、
「いや、若い人らは賑やかな方がいいです」と穏やかに言われたことを憶えている。
そのアパートに風呂はなかった。
真夏に僕らは水道管にホースをつなぎ、裏庭に即席のシャワーを作った。
その老人も「ありがたいです。シャワーつかわせてもらってます」と喜んでくれた。
二軒隣りの大家さんが一度、アパートの住民を招いて宴会を開いてくれた。
そのときも、その老人は参加して、和やかに飲んでいた。
どうしてその人が学生アパートで一人ぐらしをしていたのか?
その理由を知ろうとも、想像しようともしなかった。
それが若いということか、と思う。
いま、想像すれば…あの人のたたずまいは、もしかして医者だったのかも? と思う。
その人は外地の軍医で、東京大空襲で妻子をなくし独り身となった。
そして、友人、あるいは恩師だった金沢の宮村院長に声をかけられ、勤務医として宮村医院につとめた。
やがて宮村院長が亡くなり、医院も閉鎖。
自らも高齢となり、行く場所もなく、その学生アパートに住んでいた。
なんて、今なら勝手に想像する。
あの人は当時、今の僕と同じくらいの年齢だったのかもしれない。
Googleマップのストリートビューで宮村アパートのあった箇所を覗いてみた。
この画像の正面(角)がアパートの入口だった。
当時の写真を撮らなかったことが悔やまれる。
こうしてみると映画の舞台にもなるような、良いロケーションにあったのだと思う。
二日連続で同じ時間に出勤。
今日は3分番組のポスプロ編集の代行で、16時過ぎに告知動画のアップも済ませて解放される。
夕立が来そうで雲行きは怪しいが軽く飲んで帰ろう。
地下鉄の鶴見緑地線で西へ。
ひさびさに大正駅へ行こうか、それとも谷六の蕎麦屋へ行こうか。
辛味大根の蕎麦が食べたいと探した店「文目堂(あやめどう)」に決める。
ダメなら谷六にはいい店が他にもあるし。
谷町六丁目の駅から地上に出ると大粒の雨が落ちてきた。
急ぎ足で逃げこむ。
「文目堂」は古い洋風の商家を改築した店で、5時半で先客が2組いた。
落ち着いた色目の店内、重厚な和風家具、いい蕎麦屋というオーラを感じる。
大テーブルの端っこに座る。
そば切り文目堂(大阪府大阪市) | 日本蕎麦保存会jp そば研究家の蕎麦情報マガジン
店を出ると雨は上がって涼しくなっていた。
今日はジョグもプールも行かなかったので、少し歩こう。
上町台地、およそ3キロの夕暮れ散歩。
途中、谷四でなつかしい店を見つけたり、ちょっと興味を惹かれる店を見つけたり。
先日行ったマルキン酒店で途中下車。
近所に住むセルジオを誘うが夕食の調理中とのこと。
でしたか、と一人飲み。
今日はたこ焼き三代目の小学5年生の屋台はなし。
飲んでいたら坊主頭の少年とその兄弟姉妹が5人ほどぞろぞろと店を出て行く。
どこへ行くのだろう?
これで十分ほろ酔いになる。
さらに上町台地を北上、その先にカラフルな提灯が見える。
近づくと地蔵盆だった。
懐かしい。
愛知県の商店街でも夏の終わりに地蔵盆があった。
もう夏休みも終わりだ。
以下、上町台地散歩のフォト日記です。
当時、会社のオフィスがあったのが谷町四丁目界わい。
会計士の先生に紹介された安い居酒屋(食堂)があった。
記憶をたどると…
・本町通りに面していて、少し奥まった通路の先にある。
・名物は長崎の皿うどんのような料理で、めちゃボリュームがある。
・ランチがめちゃ安くてボリュームがある。
・名前が 天 だったか 点 だったか。
今日、その界わいを歩き、本町通りでこんな中華料理店を見つけた。
「天天酒家」という店名。
その店は天天ではなかったか?
でも、こんな新しい中華ではなかったし、通路の奥にあった。
奥?
通路があった。
入って行くと、あ、ここは! 覚えのある場景。
あの店だ!
名前は吞吞亭になっているが、まさしくこの奥の店だ。
今はすぐにネット検索出来る。
店の内部も記憶にある。
名物料理の皿うどん的なものもあった。
店名の経緯はわからないが、天天という名前は表の店で使って、もともとの店はそのままやっているのだろう。
いつかセルジオを誘って行ってみよう。
ボリューム満点なのは困るが、腹を減らして行くしかない。
「こちら前は「点」という名前だったそうで、現在は「呑呑亭」となっております。」
と口コミにあった。
名物皿うどんはかつてはフライ麺と呼んでいて、今はなぜか風雷麺というらしい。
香味ソーセージも名物で、これも何となく憶えている。
居酒屋で飲むのもすきだが、
外からちらりと眺めるだけ、
これもたいそうすきである。
格子窓のむこう、
またはお客が帰りぎわにがらりと空けた扉のその奥。
すでに夜の帳が降りて暮れなずみ、
いっぽう店の中にはオレンジ色のぬくい灯りが
あまねく降り注ぐ慈雨のように充ち満ちている。平松洋子「風景の一部になりにゆく」