ぷよねこ日々御留書 since2023

「にちにちおとどめがき」 毎日更新 日々の記録です。

2023年8月23日(水) 上 町 台 地 夕 暮 れ 散 歩

上町台地 安堂寺町にある蕎麦「文目堂(あやめどう)」

 

他人の来し方、それも年配の人(老人)の人生に考えが及ぶのは、五十半ばになってからだったような気がする。

今でもときどき思い出す老人がいる。

大学時代、疎水のほとりにあるアパートに住んでいた。

そのアパートは木造の二階建て洋館で、かつては入院もできる病院だった.

まだ宮村医院と記されている住宅地図もあった。

一階が診察室、二階が病室だったのだろう。

家賃は2万以下で、ほとんどが金沢大学の学生だった。

一階の奥にちょっと広めの洋室があった。

いま思えば院長室だったのではと思う。

そこに住んでいたのは背の高い痩身の老人だった。

イメージは俳優のロイ・ナイ、あるいは笠智衆

時々、共同の流し場で会って挨拶する程度のつき合いだった。

誰かの部屋で酒盛りをした翌日に「うるさくてすいません」と言うと、

「いや、若い人らは賑やかな方がいいです」と穏やかに言われたことを憶えている。

そのアパートに風呂はなかった。

真夏に僕らは水道管にホースをつなぎ、裏庭に即席のシャワーを作った。

その老人も「ありがたいです。シャワーつかわせてもらってます」と喜んでくれた。

二軒隣りの大家さんが一度、アパートの住民を招いて宴会を開いてくれた。

そのときも、その老人は参加して、和やかに飲んでいた。

どうしてその人が学生アパートで一人ぐらしをしていたのか? 

その理由を知ろうとも、想像しようともしなかった。

それが若いということか、と思う。

いま、想像すれば…あの人のたたずまいは、もしかして医者だったのかも? と思う。

その人は外地の軍医で、東京大空襲で妻子をなくし独り身となった。

そして、友人、あるいは恩師だった金沢の宮村院長に声をかけられ、勤務医として宮村医院につとめた。

やがて宮村院長が亡くなり、医院も閉鎖。

自らも高齢となり、行く場所もなく、その学生アパートに住んでいた。

なんて、今なら勝手に想像する。

あの人は当時、今の僕と同じくらいの年齢だったのかもしれない。

 

Googleマップストリートビューで宮村アパートのあった箇所を覗いてみた。

この画像の正面(角)がアパートの入口だった。

当時の写真を撮らなかったことが悔やまれる。

こうしてみると映画の舞台にもなるような、良いロケーションにあったのだと思う。

画像をじっと見ていると宮村アパートの面影が甦る。

 

二日連続で同じ時間に出勤。

今日は3分番組のポスプロ編集の代行で、16時過ぎに告知動画のアップも済ませて解放される。

夕立が来そうで雲行きは怪しいが軽く飲んで帰ろう。

地下鉄の鶴見緑地線で西へ。

ひさびさに大正駅へ行こうか、それとも谷六の蕎麦屋へ行こうか。

辛味大根の蕎麦が食べたいと探した店「文目堂(あやめどう)」に決める。

ダメなら谷六にはいい店が他にもあるし。

 

谷町六丁目の駅から地上に出ると大粒の雨が落ちてきた。

急ぎ足で逃げこむ。

「文目堂」は古い洋風の商家を改築した店で、5時半で先客が2組いた。

落ち着いた色目の店内、重厚な和風家具、いい蕎麦屋というオーラを感じる。

大テーブルの端っこに座る。

そば切り文目堂(大阪府大阪市) | 日本蕎麦保存会jp そば研究家の蕎麦情報マガジン

 

文目堂 出来る店には定番のハートランド、つまみは烏賊の丸干し 一般勝負。

辛味大根おろし蕎麦 越前のおろし蕎麦とはイメージが違った。

 

店を出ると雨は上がって涼しくなっていた。

今日はジョグもプールも行かなかったので、少し歩こう。

上町台地、およそ3キロの夕暮れ散歩。

途中、谷四でなつかしい店を見つけたり、ちょっと興味を惹かれる店を見つけたり。

先日行ったマルキン酒店で途中下車。

近所に住むセルジオを誘うが夕食の調理中とのこと。

でしたか、と一人飲み。

otomegaki.hatenablog.jp

今日はたこ焼き三代目の小学5年生の屋台はなし。

飲んでいたら坊主頭の少年とその兄弟姉妹が5人ほどぞろぞろと店を出て行く。

どこへ行くのだろう?

蕎麦屋ハートランドマルキンで黒ビールの小瓶。

これで十分ほろ酔いになる。

 

セルジオと…ではなくオノマチと吞む。

 

さらに上町台地を北上、その先にカラフルな提灯が見える。

近づくと地蔵盆だった。

懐かしい。

愛知県の商店街でも夏の終わりに地蔵盆があった。

マルキンの兄弟姉妹たちは地蔵盆へ来たんだね。

もう夏休みも終わりだ。

 

地蔵盆のにぎわい 懐かしい。

以下、上町台地散歩のフォト日記です。

 

かつては何の商家だったのか?

細切りの十割蕎麦に辛味大根

 

二十代後半、大阪市内の森ノ宮市営住宅に2年ほど住んでいた。

当時、会社のオフィスがあったのが谷町四丁目界わい。

会計士の先生に紹介された安い居酒屋(食堂)があった。

記憶をたどると…

・本町通りに面していて、少し奥まった通路の先にある。

・名物は長崎の皿うどんのような料理で、めちゃボリュームがある。

・ランチがめちゃ安くてボリュームがある。

・名前が 天 だったか 点 だったか。

 

今日、その界わいを歩き、本町通りでこんな中華料理店を見つけた。

店そのものには興味はないが、店名は…?

「天天酒家」という店名。

その店は天天ではなかったか?

でも、こんな新しい中華ではなかったし、通路の奥にあった。

奥?

通路があった。

入って行くと、あ、ここは! 覚えのある場景。

あの店だ!

名前は吞吞亭になっているが、まさしくこの奥の店だ。

この雰囲気、場景、見覚えあり。

今はすぐにネット検索出来る。

店の内部も記憶にある。

名物料理の皿うどん的なものもあった。

店名の経緯はわからないが、天天という名前は表の店で使って、もともとの店はそのままやっているのだろう。

いつかセルジオを誘って行ってみよう。

ボリューム満点なのは困るが、腹を減らして行くしかない。

 

呑呑亭 - 谷町四丁目/居酒屋 | 食べログ

「こちら前は「点」という名前だったそうで、現在は「呑呑亭」となっております。」

と口コミにあった。

名物皿うどんはかつてはフライ麺と呼んでいて、今はなぜか風雷麺というらしい。

香味ソーセージも名物で、これも何となく憶えている。

 

谷四界わい 平松洋子さんの一文を思い出す。

  

  居酒屋で飲むのもすきだが、
  外からちらりと眺めるだけ、
  これもたいそうすきである。
  格子窓のむこう、
  またはお客が帰りぎわにがらりと空けた扉のその奥。
  すでに夜の帳が降りて暮れなずみ、
  いっぽう店の中にはオレンジ色のぬくい灯りが
  あまねく降り注ぐ慈雨のように充ち満ちている。 

         平松洋子「風景の一部になりにゆく」

 

 

 

マルキン酒店に吸い込まれる。

上町台地もすでに北端近い。台地だけ起伏に富んでいるのはなぜだろう?

遠くにぼんやりと見えるのは…?

地蔵盆のにぎわい 夏の終わりを実感する。