4月も終わる。
今日もリセットの一日です。
TO-DOの整理をしたり、衣類の更新(衣替え)をしたり、
5月1日からのスケジュールをiPad Air に手書きをしたり、
陸上のインタビュー動画を編集したりしてるうちに夕方になる。
天気もいいので5時前からデイキャンプ。
マンダイで翠ジンソーダと缶の赤ワインスパークリングなどを仕入れて、ニセアカシア咲く跳ね橋のたもとへ。
昨日の夜、雨が降ったので散ってしまったかも?と思ってたけどしっか咲いていた。
ヘリノックスのチェアでドリンクタイム。
アカシアの樹下で読書、と思ってグビリと吞んで、さて…と思ったらKindleを充電したままだと気がつく。
たいがいモーロクしてますな。
アカシアの樹の下で、思いをめぐらす。
ボクたちは大谷翔平ではないので、睡眠の確保や食事の節制はそこまで厳格ではない。
でも、今日みたいに気持ちのいい季候、気持ちのいい場所でひとときを過ごすとき、何故か条件反射的にアルコールがつきもののように考えてしまう。
今日なんてそれほど飲みたいという気が起きなかったのに、気がつけば…である。
飲まなきゃ楽しめないものでもあるまいに。
丁寧に淹れて冷たく冷やした珈琲でもいい。
レモンを絞ったアイスティーでもいい。
ビールが飲みたいと思えばビールでもいい。
アルコールなしでは損してるって感覚は捨てた方がいいなと思った。
体調がいいときには欲するだろうから。
いかに健康に留意して、日々を過ごしても当然ながら老化は進行する。
出来たことが出来なくなる。
本を読む集中力も、映画を見る体力も、目も、耳も、脳も、心臓も、胃腸も、足腰も確実に下降線をたどる。
でも、と思う。
しかし、と思う。
脳こうそくでリハビリ入院中のマサオのことを思い浮かべる。
人間、どうせ老いて死ぬのだから何をしても一緒だとは思わない。
10年前の日記にこんなことを書いた。
どうせ肉体も心も劣化していくんだから抵抗しても無駄さ。
そういう悪魔のささやきに屈っしそうになる。
いやいや違うぞ。
林真理子「下流の宴」のこんな会話を思い出す。
医者になるべく受験勉強をする珠緒が図書館で広瀬という老人と知り合う。
広瀬さんは「東大入試中止の年の一橋」に入り、すでに退職し、図書館へ通う。
関連会社の役員になることが決まっていたが権力争いに敗れ隠居の身となった。
家族からはいくじがないと呆れられ図書館に通いぼんやりして暮らしている。
珠緒が言う。
「せっかくいい大学出たのに、なんかつまんないよね。
結局はさ、人って年寄りになって、いつかは死ぬんだよね。そう考えるとさー。東大とか
ヒトツバシ出てもさ、いつか人って、同じとこへ行くんだよねー」
(中略)
広瀬は苦笑いする。しかし、決して不愉快そうではない。
珠緒の反応を面白がっているのだ。
「だけど、僕はそうは思わないよ。絶対にさ」
「あれー、そうなの」
「だってそうだろ、タマちゃん。人間はさ、急に二十歳から、六十歳になるわけじゃない。
その四十年間でさ、いろんなことを経験するんだ。僕はね、世界中のいろんな所へ行ってさ、
楽しい経験をいっぱいした。うんとうまいものを食べたし、酒も一杯飲んだ。
あのね、どうせ惨めな老後が待ってるんだったら、何をしても同じだね、なんていうのはさ、まるっきり違うと思うよ」
「そうかー、そうだよね」
「そうだよ。この頃さ、タマちゃんみたいな若い人たちがさ、
どうせ、人間行きつくとこは同じ、みたいなことを考えてるだろ。あれって嫌だね。
僕はさ、思い出に生きるつもりはないけどさ、四十年はうんと楽しんだ。
年とってからのことなんか考えなくてもいいんだ。
二十代からの四十年のことを考えて人間って若い時に頑張るんだよ……。
いや、なんか説教臭いこと言っちゃったね。
せっかくのタマちゃんのコーヒーブレイクなのにさ」
そうなんだよな。
人は20歳からいきなり50歳にならない。
その間の30年をどう過ごすかが人生なのだ。
当然、60歳から70歳だって同じだと思う。
死ぬまでの、最後の10年間をどう過ごすかの選択。写真家の星野道夫(1996年没)のこの言葉が好きです。
『結果が思惑通りにならなくとも、そこで過ごした時間は確実に存在する。
そして、最後に意味を持つのは結果ではなく、過ぎていったかけがえのないその時間である』
人生において結果の持つ意味は意外に小さいのかもしれない。
これを書いたのは2013年、僕は56歳だった。
56歳から66歳のいままで、無事に人生を楽しめたことになる。
多少は身体の不具合はあったにせよ。
来月は少しアルコールを控えようと思う。
もっと美味しく呑めるように。