朝起きて、さて今日は?と思いをめぐらして、何か予定が入っていると少し憂うつになる。
この先、一ヶ月以上、いや二ヶ月はそこそこ仕事が詰まっていて(と言っても他の人の7割ほどだろうけど)それを想像すると、またちょっと憂うつになる。
このまま死んでしまったら哀しいな と思うのだ。
死ぬ前の数ヶ月は、予定の入っていない冬の日だまりのような日々を過ごしたいという願望がある。
そんな思いが贅沢だと言われるのは承知の助だけれど。
なんだか思い出は不思議な刻まれ方、保存のされ方をするみたいだ。
たとえば食の記憶。
滅多に行けない高級鮨を食べたり、雪のウインターリゾートでフルコースを食べたことより、
旅先が雨でどこへも行けずスーパーで買ってきた鉄火巻やいなり寿司とか、
時間が中途半端で探して入ったサイゼリヤとか、
先日みたいに忘れものをとりに暗い夜道をとぼとぼ歩き、国道沿いの薄暗い自販機の前で食べた中華まんとか、
そんな記憶の方がより強くより良いものとして残っていく。
家を出るとき、忘れものチェックをしたらiPhoneがない!
昨日の夜に使ったはず、いや朝使ったはず、どこだ?
デスク下に落ちていた。
迷わずアプリ「探す」の機能をONにした。
大阪マラソン特番のリハーサルだが、僕はすることがない。
ゆっくり出勤して、担当箇所を確認して、メールチェックして帰ってきた。
山形の村おこしで始めた蕎麦屋の日々を記録した短いドキュメンタリー。
最年少が84歳、最年長が87歳の4人のおばばが主人公。
それぞれに物語があり、顔に味があり、歳をとるのも悪くないなと思った。
こんな日々を送ることが出来たら、あと20年、生きてもいいなと思う。
でも、決定的に僕と違うのはおばばたちは働き者だということだ。
無理。(笑)
夕食に焼きそばを食べてから一人晩酌。
つまみに買い置きのシーチキンの缶詰を取りに行ったときに、ふと古いアルバムを手にとった。
1999年1月の戸隠。
およそ四半世紀前、クロカンスキーをする雪原の自分とヒロが…当たり前だが若い。
今と比べると、あくまで今と比べると学生みたいだ。
とっくに四十路を越えていたのに。
この時はシュプール号というJRの寝台急行で長野まで行ったのだ。
紙の写真しか残ってないのでiPhoneでスキャンしてアルバムにした。
思い出で酒を飲む。